わたしはしつっこい先生@公立小学校リードアラウド

今風のトゲのある言葉で言えば、わたしは「ウザい先生」。
しつっこい。

先日はDAVIDの発音で、どうしても「でえ/い/びい/い/どお」というA君と「対決」。
A君の授業態度には2パターンある。
1.いじけて遠くを見る(静か)
2.「できなーいっ!」と叫ぶ(うるさい)

最終学期も最後のほうの1年生だが、まだ学習がスムースに出来ない。

こういう子に向き合うと、以前に「アスペルガー型自閉症」の子を8年間個人教授した記憶がむくむく起き出してくる(A君のそのへんの事情は知らない)。

その教え子は、みんなが無理と思う「英検2級」に挑戦し続け、わたしは教えながら適した勉強法を模索し、ついには合格にこぎつけた。
その道程で、他では経験できないほどの強い信頼関係が、生徒と結べたという、幸せな記憶だ。

本年度、課外授業で出会ったA君。
「自分は出来ない」という劣等感を、自分の尊厳のために、わざと他人に「大放送」してしまう。
その「大放送」を、そのまま受け取るか、否定するか。

しつっこく、否定するのがわたしの経験則。
本当に出来ない場合と、ただの「大放送」の場合がある。

それが発音なら、その音の口での作り方を見せ、他のクラスメイト何人にもやってもらえば、(聴覚障害などがない限り)「本当に出来ない」要素は消えるはず。

そこで、「できない、できない!」が、「大放送」の場合。
これに関しては、教師の「しつっこさ」または本気度が解決の鍵だ。

意識的か無意識的か、生徒はこれで教師の「愛」を測っているようなところもある。
幼さにも通じる。

授業中なら大迷惑のこの「大放送」。
だかその向こうに、助けて欲しいと伸ばしている生徒の手があるように、わたしには見える。

教育現場での自分の執拗さは、どこからくるのか、近頃ふと考える。

思い当たるふしがあった。

小学5、6年のとき担任から受けた「理想主義」「人道主義」の「洗礼」(洗脳?)だ。
宗教から出たものではなく、その時代の教師たちに珍しくなかった、戦後の理想的民主主義からのもの。

『山びこ学校』とか、熟読したなあ。

無宗教と言ってはばからない、わたしだが、こうも執拗に生徒に「あんたは出来る」と迫る「ウザい」態度の根っこには、幼い時に植えられた「主義」が生きているらしい。
実に、ハッとする事実だ。
教育の恐さでもある。

「ウザい」だけでなく、「クサい」なあ。
嫌われることもあるだろう。
でも、もうしょうがないか。