ある公立小学校で、午後の課外授業のひとつとして、リードアラウドをしてそろそろ5年目か。
東京の地価の高い地域の、古くからある小学校。
コミュニティーがあるとはいえ、東京だ。
いろいろな家庭の子どもが通っている。
週に45分程度の、英語学習というたったひとつの「窓」からの観察だが、世相がそれなりに見える。
特に、きょうだいを教えた場合、家庭が少し透けて見えることがある。
上の子のとき。
いつも不満ばかり言う子で、実際に行動する前に後ろ向きなことをいい、「お尻が重い」。
「やだ」「やらない」「ばからしい」
やる前に「もう、それ知っている」と既知感にとらわれているようだった。
英語も、「(いつも行く)ハワイでもう見た」「インターナショナル幼稚園で読んだ」
特権的なことを、少々誇らし気に言うが、見たり読んだりした英語を言えるわけでもない。
今、その下の子がクラスにいる。
いつも不満ばかり言う。
そして、ばたばたあばれる。吠える、どなる。どこかへ消える。
口答えをする。
おとなへの言葉遣いが乱暴。
先日は、David Goes to Schoolの前に、No David! を復習した。
ベッドの上で、ばんばん跳ぶデビットに「お家のひとだったら、何て言いそうかな」の質問を投げる。
何人かに聞いていると、この下の子が挙手(raise your handを何度も言ったせいか、珍しく手を挙げて発言。いつもは、勝手にしゃべりだす)。
当ててみると……。
「何やってもいいけど、あっちでやって」。
「そう言われるだけで、叱られないよ」と付け加えた。
このときに、かなり素直な態度だったのも、印象として心に刺さる。
ガ、ガーン。
一瞬、暗澹として言葉がでない。
この子たちに責任を負う家族たちには、今すぐに出来ることがあるのに、その機会をなくしている!
などと、「大きなお世話」なことを思ってしまう。
「振り向いて欲しい」「一緒に何かをやって欲しい」
「あなたが大好きって言って欲しい」、この子たちが発している信号だろう。
わたしにそれを投げかけても(その子の心がまだ開いているということで、嬉しいが)、週に45分だけの先生には、何もしてやれない。
「ああ、そんな子がそんなこと、したなあ」
にまた、なってしまう。
「そんな子」は、「そんなこと」を抱えておとなになる。