アメリカの大学で長らく学生をして気付いたのは、いかに日本の大学には授業が下手な先生が多かったかということ。
声は聞こえない。
学生を見ない、一方向的。
勉強を面白いと思わせない。
その正反対がアメリカの大学で教える世界各国の先生たち。
バラエティに富んだ声や口調で、通る声。
ひとりひとりと話しているような視線や、双方向的な授業の工夫。
まるで台本のように構成された1回1回の授業は、起伏あり学習意欲をそそる…。
知性溢れるショーホストという印象さえある。
リードアラウドの指導の理想だ。
ところで、ワークショップの参加者が研修として実際にリードアラウド指導した場合、指導記録というものを出してもらう。
そのどれも、STAP細胞研究者の実験ノートの10倍くらい(?)意味のある貴重な記録だが、最近面白いことに気付いた。
一緒にリードアラウドしたのに、ひとりは「酷評」、もうひとりは「上出来」とすることがあるのだ。
この自己評価の乖離(かいり)は、なぜだ?
と、考えていたら、思い当たった。
日本伝統の先生として「授業」をしたという意識の場合、教えたかったことを全部教えられると「成功」。
自分を見ている。
「ショーホスト」的なリードアラウド指導を意識していると、子どもを飽きさせたら「憂慮」。
ここでは、子どもを見ている。
リードアラウド経験が長いほど、「憂慮」することが多く苦しい。
なんだがアンフェア?
いやいや、問題意識を強く持つほどに上達していくはず。
目指すは「知性溢れるショーホスト」!?