文化人類学者、山口昌男の「子供」とリードアラウド

最近亡くなった人類学者、山口昌男さんの著書を読んでいる。
前から何か惹かれる「臭い」がした。
多分、昔も読んだことがあるのだが、当時のわたしにはきっとピンとこなくて、すっかり忘れているのだろう。

岩波現代文庫で出ている『いじめの記号論』。
キーワードは「逸脱」だ。
本書で、逸脱者である子供に言及していて、「はっ」としたところがある。
いくつか抜き書きする。

山口さんは自分の中学校教師経験から、こんなことを述べている。

(前略)「・・・今まで『大学の先生に比べて中学校の先生は、程度の低い子供を相手にしている』という見方がどうも一般的です。
ところが、事情はずいぶんちがってきているのではないでしょうか。
むしろ今日、子供と接する時間の多い人間は、可能性をよけい持つことになる。
森林浴といった言葉のように、子供浴みたいなことを経験しているところがある。
だから子供と接している時間の多い人は、人間の新しい可能性を探る先兵になるのではないでしょうか。」(後略)

「子供浴」という言葉に、ピカーンとわたしの頭のランプが光った。
リードアラウドをしたあと、すっきりいい気持ちになるのは、声を腹から出して深い息を吸ったためと思っていたが、もしかしたら「子供浴」したからかも、と思った。

また、山口さんは絵本作家モーリス・センダクの以下の言葉を引いています。

『子供は、大人の準備段階ではない、
本当に子供らしい瞬間の子供は大人と関係ない、
そういう子供はどこかへ逃げていって、立ち去ってしまったもぬけの殻が大人である』。

「大人は、自分の逃げてしまった『子供』の部分を探し求めて生涯を送っている存在だと(註:センダクは)いうのです。
絵本を書くのも、自分のなかで失われて、どこかへ行ってしまった子供と再会したいからだといういい方をしています。」

ううむ。
そうなのです。
センダクのWhere the Wild Things Areを、大人と読むときの悩みがある。
主人公のMax少年のせりふ、どうも大抵の大人が読むと、気持ちがよくないのだ。

もちろん正しく読めるのだが、どこか「ぶるっ」とくる寒気のような、違和感を感じるのだ。

これは、「子供の抜け殻」が、一生懸命子どものふりをしているためなんだ……、と腑に落ちた。

「ふり」は、美しくないものだ。

それから、リードアラウドというものを始めた自分について思う。
「自分のなかで失われて、どこかへ行ってしまった子供と再会したいから」やっているのかと。