「リードアラウド」で読むのは、絵本作家による芸術作品であり文学作品だ。
「リーダー」と呼ばれる、教材として企画され作られた挿し絵付き読み物は含まれない。
そのリードアラウドのコーチをしていて、日本語の「表現読み」に多くの共通項を見いだす。
「表現読み」で著名な渡辺知明さんの著書『朗読の教科書』を、機会あるごとに参照する。
その第6章「文学作品の表現方法」だが、リードアラウドと特に関係深い。
本章のねらいは「作品の世界を楽しんでもらえるような読み方にする」こと。
まず、ここに注目したい。
絵本には「読み聞かせ」という言葉が、しばしばくっついてくる。
そこに、読み手の「上から目線」を感じるのは、わたしだけ?
特に「英語絵本の読み聞かせ」では、その目線が織り込まれている気がする。
だが本来、朗読は渡辺さんが書くように、
「作品の世界を楽しんでもらえるような読み方にする」、楽しんで頂くもの。言ってみれば「下から目線」であるべきだ。
そして、文学とはいえない挿し絵付きの教材を多く読んでいて身についたのか、ただ読み上げる、読み聞かせも多い。
しかし、リードアラウドが厳選する絵本は、文学作品。
渡辺さんが書いているように、どれも作家が精魂込めて生み出したもの。
しっかり分析し理解して、読むべきなのだ。
その分析の第一歩、これはまったく日本語の文学作品の朗読のときの準備と同じ。
ナレーターはだれか。
だれが語るのかを考える。
これをワークショップでも一緒に考えるのだが、驚くのは、「そんなこと考えてもみなかった」という声が多いこと。
しかし、これで納得がいく。
世の中の絵本の読み聞かせに、わたしが感じる違和感が。
語り手の声や口調、ニュアンス、もちろん人称などおかまいなく、無法状態。
ただ甘く可愛い声にしたり、地のままのおばさんだったり、英語が上手なご婦人だったりの、各人1冊につきワンパターン。
『朗読の教科書』にはこうある(p.229)
(前略)一人称の場合には、読み手は語り手に同化して読みます。それに 対して、三人称の場合には、人物に距離を置いて読むことになります。
(中略) 読み手は「語り手」が語ることを責任をもって引き受けなければ なりません。自らの責任で理解して聞き手に聞いてもらうのです。
(中略) 「語り手」が語る人物の人称によって気持ちの入り方が変化する のです。
絵本は幸い、子どもを主な読者対象にして書かれているので、あまり複雑な文はない。
だからこそ、作品を声の形で立体的にすることを怠けてはいけないだろう。
そして、英語を母語としない人たちに聞いてもらうのだ。
だからこそ、こちらの身体能力を高めて、わかりやすい表現を身につけたい。