中国/韓国/日本人みんな「アジア人」〜クジラを見ながら考えた

国を一歩出ると、わたしたちはいっぺんに「アジア人」になる。
それは人種的にモンゴロイドで、みかけがほぼ「同じ」。
他の人種の人たちに識別しやすく、隠せるものではない。

この夏、観光客を乗せたクジラウォッチング船に乗ったときのこと。
たぶん中国本土からの、子ども10数人と親とガイド(?)の一団と一緒になった。

いやー、そのやかましさに、まいった。
大人も子どもも、大声で叫ぶようにしゃべる。
しゃべる。しゃべる。引っ切りなしにしゃべる。

そして厚かましい。
デッキに坐っていたときのこと。
最前列のベンチに、たった25センチくらいだが隙間があった。
そのグループの女性が、「ここは誰かの席か」と尋ねた。

一瞬、意味が分からない質問だった。
子どもも坐れないくらいの隙間だから。

「Oh, no, no」
隣のアメリカ人は答えた。
空いているとわかると、約90センチの幅の彼女がそこに押し入った。

そこまでは、まあたまに東京の電車のなかでも見かける光景かもしれない。

だが、そこからだ。
その席はデッキの先頭で、海が一番見える。
坐った婦人は子どものように大喜びし、手招きで子ども達を呼び、その周囲にやかましい子どもたちと親までが押し寄せた。

中国人の黒い頭が海を遮っている。
感心したのは、引率の大人たちが実に嬉々としていること。
悪気がゼロ。
そして、「Thank you, thank you」と周囲に愛想がいい。

他の乗客(ほとんど白人)は、「しゃーない」とした感じだったり、多くは慈善家のように懐深い、慈愛に満ちた(?)微笑みを浮かべる。

もしかして、むっとしているのはわたしだけ?

「アジア人だからしかたない」
「こういう人たちとも、これからの世界はなかよくしなきゃね」
など、PC(Politically correct)な考えをもってそうな、他の乗客たちなのである。

こんな場に居合わせると、「アジア人」として大変居心地が悪い。

西 vs. 東の図式が浮かび上がる。
そのとき、中国も台湾も韓国も日本もいっしょくたに、「アジア人」。
オリーブ色の肌に、「細い眼」、高い頬骨、短躯で、声高に話す。

こんなとき、日本国内での「アジア人」の細かい対立を無意味に感じるときでもある。

「アジア人」という感覚も、感受性さえあれば、海外に出るとすぐに経験出来る。

やはり、感受性が高いはずの年若い人たちは、平和なうちにどんどん海外に出て、世界を見て欲しい。

そして大人は、海外に子を出す前に、彼らへの公衆道徳の「しつけ」を怠らず。