日本人の「美徳」とリードアラウド

今朝の新聞で、日本びいきのドイツ人映画監督Doris Dörrie(デリエ)さんのインタビューを読んだ。

そのなかで、はっとした発言があった。
「東京の繁華街で黒々とした衣装の群衆が縦横に歩いているのを目のあたりにしたとき、黒い魚の群れを連想し、私もまぎれこんで遊泳してみたくなったんです。そうすれば、まるで姿を消したように自由になれそうだったから」

ひとりのドイツ人にこう見えた日本人の群衆は、
「同じようであっても、東京のまっただなかを歩いている群衆とドイツで見かけるそれは、まるで性質が違うものに思えるのです。(中略)個々人と集団の間合いがなかなかつかめず、一体、だれが群れ全体の動きを決めるんだ、という議論になってしまうんです」

「(東京の群衆のなかでは)他人とぶつからないためには、意識せずとも、集団の存在を常に感じていなければならない。

でも、いったん、そこにまぎれこんでしまえば、まるで、隠れみのを身にまとったように自分の姿かたちを消し去ってしまえる安心感に浸れる気がしました」

欧米のひとたちが、日本びいきになるのには、いろいろ理由があるが、こんな指摘と共通するものは、よく聞くことがある。
一種の「美徳」と言われることもある、日本人の集団的な習性か。

だが、である。
この「習性」が裏目に出るのが、リードアラウドの時間だ。

リードアラウドでは、個々人に「主張」を、つまり表現をしてもらいたいのに、「隠れみの」で身を隠す傾向がある。

日本人は概して、自分を出すのにひと苦労する「習性」を持っているらしい。
自分を表現するのは、西洋的には魂を解き放つことといわれるのに、逆に不自由を感じるようだ。

ギンギンに個人を打ち出す自由を持っている外国の人々が、ときどきほっとするのが、個々を消した日本人の群衆なのだろう。

でも、そんな外国の人々は普段から、個を主張する場があり、それができる自分を持っている。
そこで、必要となれば議論が生じ、取るべき行動が日本人より迅速に理論的に決まったりする。

日本人の群衆のなかで個を見せない習性を、美徳のように尊重してくれる外国人は少数だ。
「よその海」で「隠れみの」をまとったままでは、存在すら認められないこともある。

エーイ!
とばかりに「隠れみの」を脱いで、みんなに聞こえるはっきりした声で、何を思っているかわかる表現で、発言できる個でもありたい。

リードアラウドの指導法に、日本人として多少の違和感を抱くことがあるかもしれない。
でもそれは、学ぶひとが近い将来に、「よその海」を泳ぐことをいつも想定した指導法だから。

なにせ海は、全部繋がっているのだ。