
先日の英語絵本の朗読(リードアラウド)オープンマイクで、実は衝撃を受けた。
ある子どもの朗読が、大人の誰よりもうまかったのだ。
その朗読を聞いて衝撃の第一の波を受けた直後は、指導者としてやっていることの足元をさらわれた感じ。
「かなわない」「大人の表現ってどれも気持ちが悪い」「どう指導したらいいの」
といったお手上げな感情だった。
一週間以上経った今朝、浮かんできたのが晩年のピカソの名言
「ようやく子どものような絵が描けるようになった」。
ああ、この意味が本当にわかった。
子どもの中には表現の最も純なものがあって、それは子どもから難なくするりと出る。
そして、その表現は小賢しくなった大人の凡人には真似ができない。
真の芸術を求め続けたピカソの中にあった目標が、この子どもの表現の再現だったのだろう。それを求め続けたから、偉大なのだろう。
それは、人間が行える最初の表現であり、同時に完成形、そして理想形だ。
ただし、通常は時間とともにその人から失われる。
ピカソが求めたその再現。
そして多分、天才だから、晩年にやっと自身がそこに「たどり着けた」。
表現ってそういうもの、「子どものような絵」、なのかもしれない。
英語絵本の声による表現をする大人の目標は、「子どものような表現」か。
それは埃をかぶっているどころか、コンクリート詰めになっているかも。目標は、それを引っ張り出す。
それから、今せっかく子どもの人たちに、大人がすべきこともある。
一人ひとりの子どもは、元から内に持っている「芸術」がある。
それは、いろいろな外装でを包まれているので、指導という「ノミ」で削り取って、なるべく壊さず取り出してやること。
「ノミ」は助けにもなるが、傷つけることもできる。心して。
さあ、自分のコンクリート詰めになった芸術、または表現を救い出しつつ、今子どもの人たちには、彼らを包んでいる覆いを少しでも軽くしてあげようか。