今朝の新聞「折々のことば」はロラン・バルトの言葉:
ゼミナールは、私にとって(軽い)錯乱の対象であって……この対象に惚れ込んでいる
そして、解説にこうある。
ゼミナールはラテン語の「種」に由来する。
ゼミナールは種が蒔かれる場所、
教師も学生もなくそれぞれに弾ける場所なのだ。そこでは確定した何かが伝授されるのではなく、
解らしきものはみな宙吊りにされる。足場を崩され、めまいに襲われる。
そしてそういう交感が何にも代え難い悦びとなる。
「テクストの出口」(沢崎浩平訳)から。
先日のカルチャーセンターで、お互いに自分たちの朗読を講評し合ったときのこと。
昨年から続けている「先輩」が、今期始めたばかりの「後輩」を講評した。
「もう少し、弾けるといいですね。
弾けると自由になって、表現が出てきます。
わたしも、弾けました」
そう、弾ける。
なにか流行言葉のような使い方だと思いつつ、わたしも使っていた言葉。
でも、古典的な意味を持ち、実はワークショップの本質を突く言葉だった。
わたしが指導者、先生なんて畏れ多い。
ファシリテイター、テーマの提供者のつもり。
わたしも、弾ける。
そして、みなさんとの交感が何にも代え難い悦びとなっている。
ワークショップ、
セミナー、
カルチャーセンター、
大人や子どものみなさん、ありがとう。