わたしは北京語も台湾語もできない。
なのに、先日の台湾旅行中、なんだか北京語やら台湾語やらを分かった気になって、ときに通訳まがいのことをする場面があった。
真顔で「通訳」するものだから、ちょっと北京語が分かる従姉まで、「そう言っているの?」と、一瞬、頼るような視線を投げて来たほどだ。
わかる単語が一語でもあると、もっと強気の「通訳」になる。
この「通訳」は、内容が恐ろしいほどあっているときもあるのだが、まったく違う場合もある。
失敗だった例としてこんなのがある。
台湾の新幹線の改札を通ろうとしたら、駅員さんに止められた。
何だかわからないが、きっぷを買う窓口へ連れて行かれ、時刻表や時計を指しながら、何か言われた。
奥の係員は、レジスターをたたいて「30元」と金額を指して何かを言っている。
わたしが通訳すると
まだ、この列車にはずいぶん早い時間なので、一本前の列車に振り替えたらどうか。手数料は30元だ
「そういうことなの?」心配そうだが信じたそうな従姉…。
「だいじょうぶ!」
自信ありげに30元払ったわたし。
その後、ついてきた駅員さんがわたしたちに身振りで示したのは…
在来線のプラットフォーム。
指を3立てて、左の線路を指し、乗れと示す。
ええええ?
果たして正解は?
新幹線の「台中駅」はここではなく、在来線、このホームにくる電車で3つ目の駅だ。そこまで30元の切符を買って行きなさい
なーんだ。
こうした間違えもときとしてあるが、
なにしろ、強引にもいいたいのは、
シアターゲームの「でたらめ語ゲーム」は、こうした外国語での交流の場で力を発揮するはずだ、
ということ。
ちんぷんかんぷんな言葉を聞いていても、それがただの音の羅列に聞こえない。
だからパニックしたりしない。
それを発している人の、何かしら表現したい情報の一部が伝わって、
それなりの想像が湧く。
自分が言ったことを、相手がちょっとはつかんでいるという顔つきはわかるものだ。
だから、話している人は安心感を覚え、その結果、もっと一生懸命に話してくれる。
この、一種、原始的なコミュニケーション力。
これは、太古にはきっと生きながらえた人間には、必ずそなわっていたものだろう。
だから大陸を移っても、原始人たちはそれなりに「外人」と通じ合えたのではないか。
それが、現代になるまでに、恐らく衰えた。
でもDNAとしては持っているはずで、
それを呼び覚ませば、英語でも何語でも、聞いて分かりやすいし、しゃべって伝わりやすいものになるだろう。
シアターゲームをいろいろ知るにつれ、
これらがどうやら、人間の深いところにある原始的コミュニケーション力を呼び覚ます演習になるのではないか、
という気がしてきた。
表現力も然り。
意思伝達力も然り。
協働精神も然り。
そして、子どもはこの原始の力を大人より多く残しているに違いない。
そんな子どもと、リードアラウドなどしようとする大人は、だから、もっともっと原始的コミュニケーション力を掘り出さなければならない。