小学生、なぜすでに英語に劣等感?:公立小学校で思うこと

公立小学校の課外授業で、英語絵本リードアラウド指導、そして指導者研修をしている。

毎年、新年度になり新しい参加者を迎えると、だいたい2、30人中数人、英語が「ヤダ!ヤダ!」と頭ごなしに言う子がいる。

驚くのは、それが小学生で、おまけに低学年、「ぴかぴか」の1年生にもいることだ。
「なんで?」と最初は疑問に思った。

だが、足掛け4年ほどそんな子たちを毎年見て思うのは、劣等感のこと。
多分、どこかで既に抱いてしまった劣等感が、本当はやれるものを出来ないと子に思わせ、結果的にやれないものにしてしまっているのではないか。

例えば、こんなことがあった。
「大文字」という意味の「uppercase」を、復唱させたときのこと。
「あっぱーけーす」と、言えばいい。
ところが、ひとりが闇雲に「できない」「むずかしい」と言って拒んだ。
にらめっこの「あっぷぷ」を言わせて、やっと、本当に闇から声を引っ張り出すような感じで「あっぷ」+「ぷあ」を言わせた。

この子、1年生だ。
まだ、耳で聞いて、オウム返しはオチャノコサイサイの年頃である。
なのに、この彼の「ぼくはできない」と言い切る確信の強さはどうだ。
もしかしたら「学習障害」なのかもしれないが、限られた時間での印象は、形質的原因というより心理的なものだろうということ。
それはたぶん、これも劣等感のせい。

英語に、すでに劣等感を持ってしまっている子は、どこかで既に英語経験をした結果か、塾などで先取り英語学習をしている子と、自分を比べるからかも知れない。

大人が「成績」へのこだわりとか、自分の失敗や劣等感を、過剰に子に伝えてしまうのか?

国民性として、「他人と比べる」性癖が強いのか?

いやいや、「雑音」をはねのけるバネを持たない子が、今の日本の風土に多く育っているのでは?

起因はわからない。
でもこれまで、過剰なる劣等感というものが、子どもの成長、そして人としての成長を邪魔してきたのを見ている。

子には無限に近い可能性があること、努力の先にもっと楽しいことがあること、そして語学ならなおさら、小さい今のうちなら努力も大したことないことなど、周囲が伝えたい。
肉親や身近かな大人が、劣等感を持つ余地がないほど、その子にはもっと夢があることを語ったり感じさせて欲しい。

英語指導者が言うのもおかしいが、英語の前にわたしたち大人は、子にしてあげることがありそうだ。

週に1時間弱程度、それも課外授業を指導するものには、本当に微力しかない。
とは言え、英語の楽しさを、より分かりやすく伝えられるよう努力は続けようと思う。