今朝の新聞の文化欄(朝日新聞2017.6.19、33ページ)、「詩 声に出してこそ」という見出しに目が吸い寄せられた。
今、詩人たちが活字で発表するだけでなく、朗読に力をいれるようになってきているのは、なぜか、という記事だ。
詩の朗読の世界大会、ポエトリースラムについては、こうあった。
スラムは「力強く投げる」という意味で、詩人たちはそこで母国語で朗読し、
英語などの字幕が写し出される。
どこまで観客を魅了できたかが審査されるもの、という。
昨年の世界大会、準決勝まで進んだ詩人によれば、声に出して読むと
「言葉が十分に分からない外国詩も楽しい。
優れた朗読は音楽にも負けない」
リードアラウドにひいて考えると、すごく納得がいく。
海外で詩の朗読の経験がある詩人によると
「日本の詩人は肉声が貧弱すぎる」
これも納得。
リードアラウドを始めようとわが門をたたくひとたちの、第一声はたいてい心もとない。
肉声を重視する詩人たちもいる。
わけは
「マイクを通すと声の個性が失われてしまう」
よくわかる。
ある有名詩人は語る。
「朗読は詩歌・言葉の原点に返る行為」
街頭などで自作を朗読してきた詩人は言う。
「朗読は個性の発露ではなく、
その場が持つ磁力を感じ、
死者たちの言霊をも受け止める営み」
特に、この「朗読は個性の発露ではなく、
その場が持つ磁力を感じ」の部分に共感する。
絵本の朗読では、特に、読み手の個性を発露にされると、観客は何やら腰が浮くような、心地悪くなる。
子どもなら、すぐに反応して気もそぞろになる。
リードアラウドでは自作を読むのではないが、書いたり描いた作者が込めた心を、指導者は誠実に読みとり、表現して、子どもたちに伝えたい。