にほんブログ村
子どものときの、本の読み方を思い出してみる。
ひらがな、カタカナが読めるようになったころは、嬉しくて1人の時間に絵本を読んでいた。
図書館がそばにない上、連れて行ってくれる人手もなかったので、家にある絵本を繰り返し読んだが、それだけでは読み飽きてしまった。
そこで手を出したのが、大人の本。
ふりがながついていない本の場合に、していたのが「拾い読み」。
かなり漢字が読めるようになるまで、そして図書館などで自由に借りられる年頃まで、家には大人の本はたくさんあったこともあって、この拾い読み時代は長かったように感じる。
その記憶から言うと「拾い読み」は、のちのわたしの旺盛な読書活動の助走期間として、「読書熱」に燃料を注ぎ続けてくれたというか、本を読むことの習慣化におおいに力を添えてくれた。
そして、「拾い読み」のおかげで、読めない部分を推測するクセがついて、かなりの確率でその推測も当たるような、一種、読書力が上がったように思う。
この実感もあって、英語圏の教育界、学校図書館司書界でいうところの「skim reading」、「拾い読み」が、のちの本格的な読書に入る一過程で役に立つという考えを、支持している。
読書は「内容の75%程度理解できないと面白く感じない」から、そのくらい理解できる本を選ばせよう、と説くReadingの先生方もいる。
一方、子ども時代のわたしのように「読みたい欲」が強い場合や、特別に興味があるもの(たとえば恐竜、電車など)についてなら、いわゆる自分の読書力(Lexile 指数などで示される)よりも上の本でも、「読める」という専門家もいる。
教材会社が作った絵のついた教本ではなく、文字通り本物の絵本や児童書で英語学習もするリードアラウド。
そこでは、このskim readingを本格的readingまでの、ひとつの段階と捉えて、最初は「全部読めなくてもいい」と子どもには声高にいう。
具体的には、読解する上でのキーワードやキーフレーズを、感情も考えさせ声に乗せて音読での、skim readingをしていく。
また子どもたちには、「リードアラウドの約束」のひとつとして、「わからないところは、むにゃむにゃでもいい」と挙げてもいる。ただし、この「むにゃむにゃ」は、先生の読み方をちょっと曖昧な「喃語」のようなものでマネをする、ということ。
一冊の本を3~4レッスンで繰り返し読んでいくうちに、また発表会なども挟むと、この「むにゃむにゃ」がどんどん減っていく。
それは、指導者にも親御さんにも、見もの(聞きもの?)で、その吸収力には舌を巻く。
さあ、3月は今年度の発表会!