小学校の英語:コミュニケーションってなんだろう〜リードアラウド研究会

公立小学校で「外国語活動」として始まった英語教育が、20年から5、6年生で教科となっている。

その大きな目標として、「外国語活動」が始まった頃から文科省によって掲げられているのが「コミュニケーション能力の素地を養う」こと。

 

「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方を働かせ,外国語による聞くこと,読むこと,話すこと,書くことの言語活動を通して,コミュニケーションを図る基礎となる資質・能力を次のとおり育成することを目指す。」と謳っている。

 

約18か月だが、実際に指導に参加して、わたしの目で見た学校の「外国語学習」の現場は、英語専任講師の頑張りと電子化された教科書は目を見張るものだったが、「コミュニケーションを図る基礎となる資質、能力の育成」については、言葉がふわふわ浮いているだけのような、「言うだけ」詐欺ではないかと、「指導要領」に憤懣が湧いた。

 

どうすりゃいいの?

この解決は、個々の教師に任せるものではないだろう?

 

コミュニケーションって、「英語会話」の練習?

型のフレーズを暗記して、それをカチンコチンに固まって棒読みしあう、というのが70年代頃にもよくあって、それらに時間や努力と親のお金を随分とつぎ込んだ。

今の小学校英語でも、少なくとも教科書の表に出ている標準的指導は、この「英語会話」的スキットに沿ったものだ。

 

個人的な経験と、英語を教えてきた経験も合わせて考えると、これらの練習は、その後の英語を使う生活に、ゼロではないが、効率の悪い学習方法ではないかと思う。

習った「スキット」通りに展開する場面はないし、たまたま「ここぞ」というところで、その台詞を言うにしても、丸覚えした文を思い出そうと宙を見たり天井を見たりして、やっとの事で言うだけで、タイミングを外したり、感情の見えないつまらない語り手になるだけだ。

わたしだけではなく、これまでの日本人の英語学習者には多く見られる特徴だと思う。

 

しかし、人が集まり英語が共通語の場で、何人もの非英語圏の人が、文法も間違っている、語彙も初級程度だが、タイミングのいい反応と発話、そして生き生きとした息使いのある語り口で、多くの人によく理解され、場を盛り上げるのを何度も経験した。

学校でも、英語はたどたどしくとも、たくさん言葉を重ねたり、表情が豊かで分かり合えて、人気者になる人も少なくなかった。

 

「文化の違いさ」と日本人留学生同士で慰めあうこともあったが、40年前と今では、世界状況が違わないか?

 

コミュニケーションってなんだろう。

 

もちろん指導要領では、外国に出た場合、または外国の人たちが多い場に出た場合の「コミュニケーション」を意味しているとは思う。

それなら、今のカリキュラムで私たちの「コミュニケーション能力」大丈夫か?

 

わたしは、疑問に思うことだらけだ。(続く)

 

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