小さい頃から好きで、今も続けているものは、読書。
学生時代と比べるとお恥ずかしい読書量になってしまった今日この頃だが、時間があるとなれば、やはり読書に没頭したいと思う。
その読書、英語でも日本語でもいいのだが、何に役立つのか。
今日、薄いおかゆを作っていて、ふと浮かんだ思いに、ちょっと驚いた。
「ごはん粒の少ないおかゆでも、ありがたいなあ」
「つくづく思う」という感覚だった。
でも待てよ。
そんな、米粒がたくさん入った重いおかゆが食べられないわけではない。
好きで薄いのを作っているのだが?
なんだろう、この反射的に浮かんできた「ごはん粒があるだけ、豪華な粥」という思いは。
高度成長時代に育った私が、米粒いっぱい食べたいのに食べられなかったという経験はない。
このありがた感は、なぜ?
思い当たるふしがあった。
本で読んで知った感覚。
終戦間近の日本の食卓についての記述を、あちらこちらで読んだのだ。
多分、小学5、6年生の頃の、戦争文学や手記など濫読時代に。
読書による「疑似体験」だ。
また、別の折の別の感覚。
薄いお茶を飲んだ時に湧いた感覚がある。
「色があるだけありがたい」
ん?
この感覚は、
パールバックの『大地』三部作を読んだ時に記憶されたに違いない。
この本を、仮性近視になるくらい夢中になって読んだのが、中学生のある夏。
このときに、なぜか染み付いた極貧中国人農奴の、お茶のイメージだ。
極貧の主人公一家が、お茶の葉も満足に買えず、白湯に近い薄いお茶を土間で飲むという場面。
自分の経験のように浮かんでくるのが不思議だ。
本当の経験と、読書での経験の区別がつかなくなったら、ちょっと別の意味で心配だが、
幸いまだ、とっさに浮かんだ感覚が、実の経験からなのか読書からなのか区別はつく。
ということで、
読書の一つの効用は、
多くを実際に経験するには人生が短すぎるところを、疑似体験させてくれること。
私自身、没頭して読むタイプだからか、
そんな実体験と間違えそうな読書による疑似体験の記憶が頭に、いっぱいあるらしい。
朗読などで表現を考える場合、無意識にそんな記憶の引き出しが開いて、場面が見えてくる感覚がすることも多い。
これは、自然な表現をするために、とても助かる。
近年は、読み続けたおかげか、英語でも読書が楽しめるようになった。
翻訳を通さない生のイメージが加わり始めた。
例えば、50~60年代のアラバマ州へ行けるわけでも、行ったわけでもないのに、かなり鮮やかな、当時のアラバマのイメージがある。
これは、
同作者による、最近発見され出版された続編
Go Set a Watchmanを、耽読したせいだ。
よく「読書が人生を楽しくしてくれる」とか言うが、
読んでいる最中だけでなく、
その後に、読書から生まれたイメージが頭に残り、
様々な事実を目の当たりにした時にそれが蘇り、深層的に考えたり、味わったりできることがなんとも楽しい。
具体的には、
香りも色もあるお茶をいただけた時の味わいは、お茶も買えない革命前の中国の農奴の飲む白湯っぽいお茶(の疑似思い出)と比べて、ありがたさが違う。
読書さまさまだ。