評論家で語学にも秀でた佐藤優さんの書評を読んだ。
その松岡正隆著『本から本へ』の書評からの孫引きだが、音読と黙読の関係を語っている。
佐藤優さんがこう書く。
音読の重要性は、子どもを対象とした絵本の読み解きに限定されない。大人にとっても、知的訓練としてとても重要なのだ。
そして、少々長くなるが、佐藤さんは松岡の次の文を引いている。
ひるがえって、そもそも認識(IN)と表現(OUT)とは、そのしくみがまったく異なる知的行為になっている。
「INするしくみ」と「OUTするしくみ」とはそうとうに異なっている。そのため、いろいろのことを見聞きし、いろいろ体験したことがいくら充実したものであっても、それをいざ再生しようとすると、まったく別の困難に出会ってしまう。
アタマの中のスピーチバルーン(吹き出し)に浮かんだ実感や感想をいざ言葉や絵にしてみようとすると、どうもその感想どおりではなくなってしまうのだ。
その別々のしくみになってしまっている認識INと表現OUTを、あえて擬似的にであれ、なんとかつなげて同時に感得してみようとするとき、ひとつには音読が、もうひとつには筆写が有効になってくる。
なぜ有効なのかといえば、おそらく音読行為や筆写行為が千年にわたってINとOUTの同時性を形成してきたからだ。音読や筆写をしてみると、その千年のミームともいうべきがうっすらと蘇るからなのだ
(ミームmeme :個々の文化の情報をもち、模倣を通じてヒトの脳から脳へ伝達される仮想の遺伝子)
この中の
「別々のしくみになってしまっている認識INと表現OUTを、あえて擬似的にであれ、なんとかつなげて同時に感得してみようとするとき、ひとつには音読が〜有効になってくる」
というところで、「YES!」とわたしの中でカンカンカンと鐘が鳴り響いたのである。
人類はみな長く「声による言葉」や「耳による学習」をする社会を経験してから、多くは文字を使いそれを黙読する社会へと変遷してきた。
語学の習得というのは、この人類の長い経験を個人の人生で経験し直すことにたとえられそうだ。
そこで、音読とは。
声に出し【OUT】、それが自分の耳に届いて【IN】することで、普段は表現【OUT】と認識【IN】という別々のしくみを繋げ、感じ取るのを可能に方法。
もしかしたら、音読するたびに、実は人類が言語を獲得してきた道筋が瞬間的に浮かび上がっている…ブルル。
ここで並行して論じられている「筆写」はさておき、
「音読することが複合知覚力ともいうべきを励起させている」かどうか、自分の日頃の経験的には「YES!」なのだが、科学的な研究成果は待たれるところだ。
(上っ面だけの読んだつもりだが)この論を読んで、深遠なる科学、人類の歴史の淵を見下ろしたみたいな錯覚に陥って、震える。