「わたしは英語ができない」

今秋、中学のときの担任の先生を囲んでの同窓会がある。
世話人は、「級長」だったE君。
過去の同窓会で
「大島さん、(前から)そんなに英語ができたっけ?」
といった優等生だ。

そこでまた、つらつら中学時代の「わたしの英語」を考えてみた。

中1の一学期、英語の授業に泣いていた。
その私立中学へは、わたしのように外部受験で入った生徒の他に、付属小学校からの内部進学組がいて、クラスの半分ほどを占めていた。
そしてその子たちは、小学校で英語の授業を受けていた……。

「みんな中学から頑張っているんだから」という、公立育ちの親を信じたわたしの英語力はゼロ。
付属から上がってきた級友との間には、歴然とした差があった。

英語が言葉として聞こえやしない。まるでお経。
したがってrepeat after meとか言われても、発音をどうしていいものやら。
まねをするにも、不思議な音がありすぎ(th,v,l,r,t など)。
聴いてすぐにまねられる音感も、もう退化していたか、「才能なし」。
どう音を出していいかわからない。
カタカナで「チューリップ」とふっていたら、みんなは涼しい顔で
「tulip」。
本物かそれに近い発音も、個人的に聞いたことがなかった。

一学期の中間試験前は「追いつかない、無理だ」と、泣きながら勉強した。

英語教育に携わる今のわたしが分析すれば、
英語のインプット、これが内部進学生と比べ圧倒的に少なかったのだ。

聴いてすぐに覚えられる時期に、本物の英語を聴かなかった。

英語でのコミュニケーション経験がゼロ。
もちろん、だからアウトプットもゼロ。

結果的には、この「英語のできない」中学生も、中学での文法訳語方式の教育に適応がそこそこ早かった。

「英語がうまくない」印象をはっきりと級友に刻印しつつも、予習とペーパーテストで頑張り、高校ではかろうじて帰国子女たちもまじる「習熟度別クラス上級」に入り込んだ。

実は、この先が長いののだが、その長い話は別の機会にする。
この中学生としての個人的経験で言えば、小学生での英語学習開始について、以下のように思う。

○やらなくても、努力すれば案外早く、やった子との差が縮まったり、時にはペーパーテスト上では追い越すことも可能。

中学校の英語授業で初めて学ぶことが多く、それを「自動化」(身に付ける)する時間が足らないため、そこそこでいるために大変な努力が必要になる。

発音の「自動化」は完全にはならず、「ある程度」にするにも特別な努力と意識が必要になる。

中高の教科書・問題集以外からインプットする余裕がなく、英語に面白さを感じにくい。

○やれば、発音と聴き取ることがずっと(ずっとずっと)楽にできる。

インプット量が多くなる英語学習なら、情報量が増え理解できることが多くなるので、英語に楽しさを感じやすい。
楽しいと、どんどん吸収して、さらに英語力がつく。
「英語」だけが目的ではなく「英語でなにかをする」ことも可能に。

わたしの思う「小学生の英語」「子どもの英語」クラスには、こんな自分の経験が色濃く影響しているようだ。

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