ウィーンフィル新年コンサートを見ながら「表現」を考える

 新年といえば、ウィーン・フィルの新年コンサート。(ファンサイトあり)今年の指揮者はDaniel Barenboimだった。

 バレンボイムは、チェロ奏者で多発性硬化症で亡くなったジャクリーヌ・デュ・プレの夫だったことで、知っていた。本当を言えば、そのジャクリーヌと姉を描いた映画のなかで、ボヘミアン的でエキセントリック、だが才能あふれる、ちょっと「困ったちゃん」として描かれていたイメージで記憶していた。また長く、シカゴ・フィルの指揮者だったこともある。

 1942年生まれというから、今年67歳になる。その新年の指揮を見て、「ああ、芸術には『困ったちゃん』的要素が必要なんだ」とつくづく思った。やっていることは「棒ふり」だが、演奏者を束ねてひとつの曲を演じているわけである。紡がれる音楽は、指揮者の作るものでもある。バレンボイムのもの、かなり独創的で、時には他人を「困らせる」こともあっただろうものに見えた。

 その独創性が発揮されるのは「どの部分をどのテンポで、強弱は、間は、ニュアンスは……」などだろう。これらのポイント、どこかで聞いたことがあるぞ。そう!これまた絵本の朗読と同じだ。まず解釈があって、それを表現する。それが独創的、感動的、「おもしろい!」などと観客に思わせる。

 体から湧いてくるイメージそのものを100%出している、自由で解放された感じがバレンボイムの指揮にはあった。翻って考えてみるに、自分のなかに、もし外に出たいという魂(表現したいなにか)が少しでもあるなら、それを全部出してあげたい。自分を生きるということは、生まれる前に飲み込んだ「魂のようなもの」を、竜が火を吹くようにガオ〜っと吐き出すことなのかな。今年は、「困ったちゃん」にもっとなって、ガオ〜といきますか。(それともモ〜?)。

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