久しぶり、ブックフェア@インターナショナル・スクール

ブックフェアは、子どもたちが本への愛を見せてくれるイベントでもあり、「販売員」も実に幸せな気持ちになる。

 

久しぶりに、朝から夕方までぶっ通しで、机二つに本を並べたミニ書店のおばさんを、インターの女子校でやった。

 

読み物の傾向は、この夏に見たアメリカの子どもたちとほぼ同じ。

インターナショナル・スクールは、本に関して米国とほとんど時差がない。

 

グラフィックノベル、
など、特にこの作者のものは強い。

 

語彙もいい語彙を使っていること、内容は小学生高学年から中学生の女子に興味がある、一種の成長譚。おっとりしたユーモアで、図書館司書の先生も太鼓判。
わたしも何冊か読んで、おもしろかったし。太鼓判。

 

簡単にできる材料付きクラフトセットも、パパが娘によく買ってくれた。
フェルトでかわいい人形を作ったり、冬休みにやりたくなる。

古典もまだまだ人気。
Charlotte’s Web
Roald Dahlのいろいろ。

 

面白いし、少女の心がきゅんとする。
好きだよね。

親御さんが、ざざざっとワークブックを買う風景も、見慣れた光景だ。
そんなにやれるのかなあ。
目を伏せた少女の表情が気になる。

 

Harry Potterは、今でも人気。

今頃?

と思っちゃいけない。

今、子どものひとたちは、最近この作品を知ったわけなんだから。

もはや古典の定番かな。

 

ちょっと複雑な気持ちになるのは、

表紙が特別かわいいけれど、内容はまあそうでもない、ちょっとした「少女だまし」っぽい本が人気なこと。

 

でも、読書になれること、好きになることが、特に2-3年生には重要だかれ、まあ必要悪か。

 

1050円の本があった。
ある少女が

I only have one thousand.

辛い。
「まけちゃえば?」

でも、誰かひとりにまけはじめると、きりがない。

This is one thousand and fifty yen, you know?

と言った。
しゃあない。

母語 vs. 英語〜リードアラウド研究会

英語教育で近頃目につく言葉「オールイングリッシュ」。

日本語を介さず教える、英語密度を濃くする授業で、100%良さそうだが、欠点もあると思う。
そんな、幾つかのことを考えてみる。

ひとつ。

生徒はもちろんのこと、慣れない先生も、使う英語が稚拙だったり冗漫になる傾向があって、隔靴掻痒。

授業のポイントが分かりにくかったり、無理やり英語にするので変な英語になることがあり。

 

教室での英語に慣れていない先生の場合、母語でもそうだが、言葉のキレが悪い。

一言または短文で言える事を、英語なら関係代名詞を使ったりの長文になったり、becauseがくっついたりの複文にして複雑にしてしまう。

 

「わからーん」

 

とネイティブの子に言われるような英語。日本の子には、もっと「わからん」のではないか。

 

もうひとつ。

読解をする場面で、母語でなら一言でわかる感情などが、英語では言葉を尽くさないとわからない。英英辞典の意味の解説のようで、わかったようでわからないような…。

母語で言われれば、または表現そのもので表せば、「なーんだ」と思う。

 

言葉を尽くして理解することは、時と場合で必要な過程だが、どんどん読んでいきたい時、物語に入り込んでいる時に、毎度毎度、この過程があると興が冷める。

また、読むスピードも落ちる。

読解の先の、感情とか表現の学習に進めない。

 

「オールイングリッシュ」授業に、こんな「欠点」も感じるが、

反対に、母語日本語をクラスで時と場合に応じて使うことにすると、

先生によっては、よかれと母語の「過干渉」をしてしまう。これまた、頭の痛い問題である。

日本語を使いすぎて、「親切」のつもりで、学習の阻害をしてしまうことも。

 

例えばこんなことがあった。

 

「Find a mouse with stripes」という本(『I Spy』)の指示があった。

子どもたちは「a mouse」を聞き取っただけで、ただのmouseを探し始める。

 

「with stripes」 と、英語で注意を喚起すべきなのに、

「しましま付きヨ!」

 

これで学習の機会1回がおじゃん。

これ、過干渉である。

 

 

 

また、もう一つ。

母語によるものではないが、過干渉の例として、ついでに挙げる。

 

「さあ、みんなで読もう」という場面。

ここで先生が、嬉々として率先して読んでしまうこと。

 

読み方を考え、解読しながら最初に声を出すべきは、生徒!

 

大切な学習の機会を先生が奪ってしまっているのに、気付こう。

 

先生の「おかげ」で、子どもは機械的に真似るだけ。脳の回路は省力化され、ここでも記憶の引っかかりがなくなってしまう。

 

一息待って、子どもにさせよう。

いろいろな過干渉にご注意。

 

 

 

(記憶のメカニズムについてをテーマにした、ディスニーアニメの「Inside Out」はオススメ)https://youtu.be/WIDYqBMFzfg

 

 

 

 

There is no substitute for real books…本物の本に代わるものはない〜キッズブックス英語スクール

今日は、この言葉に力をもらった。

絵本作家、Tomie DePaolaの言葉である;

 

There is no substitute for real books.  They are rarely boring or sanitized or squeezed into a “reading system” that children can smell a mile off.

 

(本物の本に代わるものはない。本物の本はまったくといっていいほど退屈なことはないし、きれいごとだけがフィルターにかけられていたり、子どもなら1マイル先から嗅ぎつける「リーディングの学習法」に押し込められていたりしないからだ)

 

So logic says if we want real readers we must give them real books; give our young people good literature, good art, and surprisingly, these young people may do the rest.

 

(よって理屈で言えば、本物の読者を望むなら、われわれは子どもたちに本物の本を与えなければならない。つまり、子どもたちに上質な文学や芸術を与えるのだ。そして驚くことに、そうすると子どもたちはその先のことをやるものだ)

 

少し解説を付け加える。

本物の絵本ならそれは本物の文学であり芸術である。

 

つまり、本物の絵本はそのまま書店に絵本の棚に並ぶもので、英語力のためにとか教えるためにかかれ、教材の棚に並ぶものではないということ。

 

そういった「勉強」ものは、子どもなら1キロでも1.6キロ先からでも、かぎ取ることができるものだ。

子どもは優れた「出題者」:「Yes, and」で答える〜キッズブックス英語スクール

指導者(先生)には柔軟性が求められる。
子ども(生徒)を受け入れる力だ。
その具体的な力として、最近とみに思うのは、「Yes, and」の精神の重要性と実用性。

スクールでリードアラウドを継続してやっていくと、一期一会のイベントでは現れない、子どもならではの難しさが出てくる。
慣れからくる親しみの表現の一つだろうが、無理難題を投げかけてくるのだ。

「いやだ、この本読まない」
「Ned(『Fortunately』の主人公)嫌い!」
「答えもう全部知っている」などなど……。

しかしこれ、
『絵本リードアラウド認定講師講座』的にいうと、生徒から先生への発問なんだと気付いた。
生徒様様じゃないか。

指導者向けのワークショップで、発問する役を受講者の大人たちにふるが、なかなかすらっと質問は湧いてこない。
なのに、子ども(生徒)ときたら……。
無理難題、いやいやチャレンジングな問題を発してくれるじゃないか。
指導者にはありがたい、「Yes, and」の濃〜い演習の場である。

伝統的な先生と生徒の関係だと、発問するは先生で、生徒は答えるもの。
例えば、「Nedは嫌いだ(ったらどうする?)」と生徒が発言したら、
先生は迷わず「そんなこと言っちゃダメ(No)」と言うものだった。

リードアラウドの指導者はこれをしてはいけない。
代わりに、「Yes, and」するのだ。
生徒:「Nedは嫌いだ(ったらどうする?)」
先生:「そっか(Yes)。それじゃNedのどんなところが嫌か見ていこうか(ここで疑問を投げかけないのがand。嫌いを受け入れる)」
Nedが嫌だというこの生徒は、どういうところが嫌なのか、ほかの生徒と一緒に本をめくりながら見ていく。
これがandでつなぐ発展ある進め方のひとつ。

「もう全部、答えを知っている」という生徒もいるだろう。
こういう場合、無視する先生もいたと思う。
よくて「みんなでやるのを待ちなさい」か。
特に日本では、
ほかより目立つことを「でしゃばり」とか、
知識をひけらかすものを「目立ちたがり」とか、
否定的に捉える文化の傾向が強い。

そこを、「Yes, and」の精神でとらえてみる。
先生:「わあ、すごいね(Yes)。分かっちゃったの。じゃひとつずつ問題を出す人になってよ」
と、生徒を出題者にさせるのはどうだろう。
これなら、答えが分かっている生徒も飽きないし、ほかの生徒も学ぶ機会を失わずにすむ。

子どもの指導の場にいて、指導者の敵は、自身がこれまで受けてきた教育の習慣からくる思い込みだ。
「Yes, and」に反する習慣が、自分に染み付いているのではと、疑ってみよう。
例えば、自分の指導計画を邪魔するようなことを生徒がしたとき、反射的に不愉快になっていないか?
そういう生徒を、「困った子」だと思わなかったか?

ダメダメ。
こういう生徒はありがたい。
「Yes, and」の精神が活かせるじゃないか。
ただ従順に、質問もなく座って聞いている(ように見える)生徒ばかりでは、指導力が伸びない。
学びも型通りになってしまうかもしれない。

生徒の皆さん。
同意できないことがあったら、待ったをかけてOK。
その「待った」は、幼稚さゆえというものもある。
でもそれがだんだん発達して本質をつくものになっていくのを、楽しみに待っているよ。

先生たちも、逃げずに!
「Yes, and」でどこまでも受けていけるよう頑張る。

Fortunately

キッズブックス英語スクール 絵本リードアラウドコース(体験レッスン)

言いたいこと、メッセージがない!〜キッズブックス英語スクール

今朝の新聞に、小学6年生と中学3年生約200万人が受けた2017年度の全国学力調査の結果が発表されていた。

 

思考力を問う問題の正答率が低かったことが、話題になっている。

 

その手の問題を前にした受験者の声が聞こえてきそうだ。

 

「かったるい」

 

なんだかこの頃、みんな面倒臭がり屋だ。

 

我がスクールの担当科目は英語。

受験の英語でのスピーチ指導をすることもあるが、

先日ブログに書いた作文(ライティング)の問題と同じく、

英語指導する前に、

その生徒の言いたいこと、メッセージ探しを手伝う必要を感じる。

 

日本の受験で、どれほど「メッセージ」の中身を問うか知らないが、

少なくともアメリカの大学受験では、その生徒の熱意というか、伝えたい中身が重要だ。

 

そして、本当の評価はそうあるべきだと思う。

 

三人称のsが抜けたとか、時制が違うとか、上等な構文を使うとか、そういうことは全く二の次だろう。

 

言いたいことがない、

という生徒でも心の中にも、実はメッセージがあるのだが、

それを言うのが面倒臭い、と思ってしまうのだろうと思う。

 

そう育ててしまった、今の社会に問題があるのじゃないか。

 

社会として、聞いてあげる、話を肯定的に受けてあげる。そんな余裕がない。興味がない。

 

そして、聞きはしても質問を挟んだり、相手のメッセージを踏まえて自分なりの理解を語ってみたりする、積極性が社会や大人にない。

 

一歩、踏み込んだ対話、それが少ない。

 

語りたくなっても、相手が面倒臭そうだと、語れない。

 

語り合いで、さらに「言いたいこと」が湧いてくる。

語り合いの場がなさすぎて、湧いてもこないのか。

 

生徒自身に「言いたいこと」が湧いてきたら……

 

英語指導者として初めて、

英語スピーチやら「ライティング」の手伝いができる。